高山 右近

 摂津国三島郡高山村出身の国人。高山氏の出自に関しては、桓武平氏平重綱の子高山二郎重遠を祖とする系図がある。同系図によれば、『太平記』には高山遠江守の名が記され、新田十六騎の一人であったとしている。また、越前守範重なる人物は武蔵野合戦で将軍方に属して功があり、上野国那波郡のうちに所領を賜った。曾孫の経重は上杉禅秀の乱に際して足利持氏方で戦った。その孫にあたる重基が美濃国本巣郡に移住、そしてその子重利が摂津国茨木に移住したとある。
 重利の兄は和田備後守に仕え、長子の重房は高山左近を称し、二子重清は中川清村の養子となって中川氏となった。重房の子がすなわち高山右近であり、重清の子が中川瀬兵衛で系図を信じる限り、両者は従兄弟同士ということになる。

●キリシタン大名高山右近

 流布する説に従えば、永禄ごろの人高山飛騨守は荒木村重に仕え、その子長房が有名なキリシタン大名高山右近である。洗礼名はドン=ジュストと称し、重房と署名。村重は天正七年、織田信長に反旗を掲げて本願寺と結び、長房も従ったが、信長は宣教師を派遣して説得、やむなく長房は信長に翻身した。
 本能寺の変の際は、明智光秀の中国攻めに従軍の予定で高槻城で軍旅の準備をしていたが、秀吉の東上を聞き、尼崎城にこれを迎え、天王山の争奪では秀吉の先鋒となって奮戦。その功で高槻城主七万石を安堵された。翌年、賤ケ岳の合戦では柳瀬岩崎山を守っていたが、佐久間盛政の猛攻を防ぎえず、秀長の本城に逃走した。
 小牧の役、根来攻めにも従軍、紀伊浜城を中川秀政とともに攻撃している。四国征伐では、阿波一宮城を包囲、天正十三年播磨明石城に転封され、同十五年の九州征伐にも従軍したが、このとき、秀吉が博多で出した禁教令が長房の生涯を転換することとなる。この九州従軍中、長房の感化で大友義統・小西行長・黒田如水らも洗礼を受け入信しており、いかに長房が敬虔な信徒であったかがわかる。
 しかし、その後秀吉の怒りに触れ、明石城を改易され、一時、小西行長にかくまわれていたが、父飛騨守の縁故を頼って加賀の前田利家に頼った。利家は長房を優遇して一万五千石を与え、小田原攻めにも従軍させ、金沢城の修築などにも用いている。関ヶ原の合戦では前田利家に従い、加賀浅井畷で丹羽長重と戦った。
 慶長十九年(1614)、家康の禁令で、内藤如安らとルソンに追放され、翌年マニラで客死した。  
 
  
 
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