京都のお城   元離宮二条城  年表
 京都もお城は有りますね、二条城をはじめ、数々の城が、京都の城で一番興味を引いたのが淀城でした。そうです、秀吉の側室茶々が淀城に移り住み淀殿と言われるのですね、しかし残念ながら今はそのような城は痕跡すらありません、現在の城跡は別物なんでね。
また京都には他府県に無い建物が残って居ります。私は全国城めぐりをしていて、石垣・堀・隅櫓・天守閣・等は僅かでも残っていますが、まつたく無いのが、本丸・二の丸なんですね、この辺に本丸があつたでしょう、二の丸はこの辺ですと言う、痕跡は有りますが、現在はその建物のカケラすら有りません、ところが当時のまま存在する二の丸が二条城に有るのですね、それも無傷でしかも歴史に残る舞台になる場所が、それが二条城なんです。城のシンボル天守閣は伏見城から移築したのですが、落雷で焼け落ち、その後再建はされませんでした。これが残っていると凄いでしょうね、京都のど真ん中に聳え立つのですから、今となれば夢ですね、再建は
南門 東南隅櫓 東大手門 東外堀 二条城見取り図
唐門 唐門 二の丸 本丸櫓門 本丸内堀路
二の丸御殿

徳川幕府の成立と終焉(しゅうえん)の舞台であった二条城。その二条城の中核をなす二の丸御殿の正面に建つ唐門。伏見城の遺構とされ、重要文化財に指定されている。ひさしの上に、雲に竜・竹に虎・牡丹(ぼたん)に唐獅子(からじし)などの豪華な彫刻が一面にはめ込まれ、桃山建築の豪華な気風がうかがえる。伏見城の遺構とされるものとして、西本願寺、大徳寺、豊国神社の国宝の3唐門が残る。(後日掲載)

本丸 天守閣跡
天守閣跡
天守閣跡から北東を 東南隅櫓
本丸御殿
西橋 北中仕切門 内堀 天守閣跡から南側を見る 内堀
伏見  淀城跡
淀城跡 淀城跡 園部城跡 園部城跡 園部城跡
淀城跡 園部城跡
淀城跡
京、大坂の境にあって、徳川幕府の要衝的な性格をもつ城だったが、1723年(享保8)稲葉氏十万二千石の居城となった。明治維新で破却されたが、本丸跡の石垣と内濠の一部が残り、往時を偲ばせている。また、秀吉の愛妾淀君の館が、淀城跡北東500mの納所妙教寺あたりにあったと伝えられている。
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園部城跡
私の城の旅はココから始まる、福知山・舞鶴・豊岡・米子・松江・そこから岡山・広島とバイクを走らせました、いつ京都に帰り着くか判らない旅でしたね、その間1度もホテルには泊まらず全て野宿の乞食旅ですね、しかし風呂は毎日入りましたね、ほんとうはこれが楽しみでした。銭湯が大半でしたが、温泉は最高でした。
福知山城跡   詳しくはココ
福知山城跡 福知山城跡 福知山城跡 福知山城跡 福知山城跡
この城は何度も来ています、石垣が面白いですね、良く観察をすると石塔・墓石まで使用していますよ。
舞鶴城跡    詳しくはココ
舞鶴城跡 舞鶴城跡 舞鶴城跡 舞鶴城跡 舞鶴城跡
警察署の前に忽然と出来た大手門、これだけ見ると驚きますね、リツパ過ぎて、正式には田辺城跡ですね、石垣も残り小さな公園をウロウロ徘徊しましたが、これらしき物もなく矢も無く資料館に入りました。
長岡京市    勝竜寺城跡   細川ガラシャ (伽羅奢)
勝竜寺城跡 勝竜寺城跡 勝竜寺城跡 山崎城跡 山崎城跡
勝竜寺城跡公園ですね、手入れはいいですよ。 山崎城跡
山崎城跡
勝利者となった秀吉は取り急ぎ天王山山頂に城を築き、ここを拠点に天下統一へと乗り出してゆく。標高270.4mの頂きに築かれた城は天守閣も備えた本格的なもので、「財寺城」とも呼ばれていた。二年ほどで城は取り壊され、秀吉は大阪へ。二年間の城下町だった大山崎には、いっとき千利休が居を構えたこともあったという。
私の城の旅は園部から始まりこの山崎城跡で終わりました。もうこの後、何処の城にも出掛けて居りません、それはフィリピン移住まで残り少なくなりそれに、時代祭り参加と言う大きな仕事も有りました。ですから事故があつてはいけませんので、それに備えました。時代祭りは色々な方々様が掲載されて居りますのでこれを又リンクいたします。人様が写した写真を見るのは何か、嬉しいような、怖いような、嫌なようなもんですね。

終わりに、
城めぐりをして僅か3年足らずで150城以上はめぐりました。ココに上げた60のお城、「なんや100城も少ないな」と思いでしょう、それは夜中寝ぼけ眼で画像の取り込みしていて、どこを如何押し間違えたか、お城の写真を削除しました。本来ゴミ箱に残る筈ですが、ゴミ箱には1枚の画像も有りませんでしたね、この時、私の顔は顔面蒼白、そうなんです、溜りに貯めた画像はすべてメモリーカードに入れていたんですね、それをPCのHDに移す作業の時、間違いましたね、人間、間違いをする時は簡単です、リセツトボタンを押すと全部消えてしまうのですね、意図も簡単に、関東地方・東北地方・南九州・遣りましたね・・・・・・笑いましたね、泣きましたね、怒りましたね、言葉が出ませんね、面白いですね。そんな訳で少なめの掲載です。ほんとうは時間を架けて、HPの製作をする筈でした。半分以上が無いもんで、予定を変更、この様な日記形式にしました本来、弘前城の様な形式で行く筈で、人様のHPをリンクする予定は有りませんでした。しかしまるで日本のお城みたいですね、跡形も無く消えました。

尚、このHPは2006年1月16日yahoo! JAPANのテカゴリに推薦されました。リンク先の皆様にも感謝致します、ありがとう御座います。


                                       dy キャプテン・サントサント印

伏見桃山城跡 (模擬城)
伏見桃山城跡 清正の腰掛石 伏見桃山城跡 再現黄金の茶室 京都市内見る南方面ですね。
営業中の城 腰掛石 廃城となり運命は 黄金の茶室 天守閣からの展望

桃山城は観光資源としての知名度はあまりなくと言うより、殆ど有りません、ですからこの城は何の価値も無いのですね。秀吉の伏見城は豊臣家の滅亡と共に廃城となり解体され各地に移築され、当時の城跡は桃山丘陵の明治天皇陵内にあるのですが、現在は立ち入ることはできない。 6億円も賭けて建築された城も、伏見城のあった場所ではなかったことから、「復元」とは見なされず、「模擬」天守と分類され、天守閣風建築物として、史跡、学術的価値は皆無と評価されている。
天守閣の入口横に加藤清正の腰掛石が有りましたが、あれは何処から運んで来たのでしょうね、それともまたどこかに運ばれ、家康の腰掛石か信長の腰掛石にされているかも。何れにしろ1番気になる石でした。
私が日本を離れる時この城は解体されると聞いて降りましたが、現在はどの様な事に・・・・・・・・なに?運動公園、それとも公団住宅?いづれにしろ又壊される運命なんですね。

これは余談ですが、この地にキャスルランドなる遊園地があり、そこのプールサイドでフィリピン人によるダンスショーがありました、私はこの時初めてフィリピン人を見たのかな〜、衝撃が走りましたね、少し背は低いがエキゾチツクな顔、黒人とまでは行きませんが、褐色の肌「おお!晴らしい!」その当時は妻も子供もいましたが、今は何故か、フィリピンで暮らし、フィリピン人妻がいます。その運命の決断をしたのが、この伏見桃山城なんですね、史跡、学術的価値は皆無と評価されて居りますが、私はこの城は違う意味で歴史に残るところなんです。

キャプテン・サントの古里、京都府はお城だけで 、何れ特集で掲載致します。
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